『世界』2014年2月号 宮城秋乃「高江 虫たちの世界」他

http://www.iwanami.co.jp/sekai/
今月号のグラビアは、昆虫研究者宮城秋乃による沖縄島北部やんばるの東にある高江の森に棲む昆虫たちの写真です。初めて見る虫の姿もありました。昆虫好き必見です。
解説に、現在高江の森に米軍ヘリパッド着陸帯が建設中で、「ハワイではオスプレイの騒音、爆風、高熱の下降気流は生態系に悪影響を与えると認められ訓練が中止されました。しかし沖縄防衛局は環境保全上問題ないと言っています」とのこと。……
最近は『世界』や『週刊金曜日』を読むと、自分みたいなのが読者でいいのかと思うことが多いのですが、ネットめぐりに飽きたこともあり、やはり雑誌を読むのが自分にはちょうど速度的に向いているし、沖縄でこういうことが起こっているのを知ることができるだけでも読者やっててよかったなあ、と思います。いろいろなことが載っていて、それで、知らなかったことに気がつきますから。そういう雑多さと間口の広さが雑誌のいいところ、ネットってかえって見る所がそのときの自分の興味関心の幅で止まったままになりやすいんじゃないかなあ。
連載中の古川美穂「東北ショック・ドクトリン」は第3回。“迷走する善意と復興予算”という小見出し、「中央主導の創造的復興型」の宮城県と、「地域からのなりわい再生型」の岩手県のちがいをレポート。
また、読者談話室では、議員定数の削減に反対する人からの意見が読めます。地方に住む者として参考になりました。


現在読書中

この続きに書くのもなんですが、小林信彦『一少年の観た<聖戦>』(ちくま文庫)を読んでいるところです。昭和七年生まれの小林信彦は両国の和菓子屋の子で、モダニストだったお父さんといっしょに小さい頃から映画や芝居を観ていた。当時、東京の下町はアメリカ映画やジャズの影響が大衆文化に浸透していたそうだが、そんな中、戦争のためアメリカ映画は上映されなくなり、国策映画ばかりになっていく。

ぼくが試みようとするのは、文字通り<聖戦>のさなかにおいて、一人の少年、すなわち、ぼくが、どのように <国策映画> や <国策演劇> を味わったかという報告である。
(引用元:小林信彦「一少年の観た<聖戦>」ちくま文庫、p18)

見巧者・小林信彦による映画の話は、映画ファンにはたまらないおもしろさ、そして当時の国策映画というのが、娯楽作品としてどう見えたか、観客にどう楽しまれたかが描かれている。
後で読書メモを書きたいと思っており、ここでは今読んでますという、それだけになりますが、たとえば最近話題になった大ヒット映画は「風立ちぬ」と「永遠の0」で、どちらも戦時中を舞台にしたおはなし、戦争を描いているということで、その点に着目して批評する方も多い。
ただ、映画を観る、評する、ということになると、まず映画としてとらえて、その出来や観る側がどう受け止めているかというのを感じ取らないといけないというのがあって、それはなかなかむずかしいのです。小林信彦はそのあたりをうまく書いてくれるのです。
そしてこの本を読んでいて思い出されるのは、かつて色川武大がヴィデオ化された映画をいろいろ取り上げて紹介した本を読んだときに、そのなかに「西部戦線異状なし」がありまして、当時は反戦ものとして大変評価が高く、主演男優はこの作品の影響から反戦主義者になり引退して農夫になったりしたそうですが、しかしこの後第二次世界大戦が起こったことに触れ、映画作品の影響力など儚いものだと、諦念まじりの感想が書かれていたこと。
映画は、とくにヒットするものは、その当時の観客の欲望や願いや希望を反映し、また夢を見せることで観客の中に新たな思いの芽をもたらすこともあるでしょう、しかしそれは直接的に現実に返ってくるのではない、簡単には抽出できない。映画にまつわる人々の反応をどうとらえればいいのか。
たとえば「永遠の0」なら、アイドル映画という側面もあり、特撮の魅力もあり、人情ものとして観る者を感動させてしまうのかもしれない。背景に潜むイデオロギーだけでは割り切れない、娯楽作品になっている(未見なのですが、映画はすべてそうです)。
だから、仮に批判するにしても、戦争を美化しているからダメ、という切り口だけでは、局部を切り取っただけで終わってしまうのではないか。
そんなことを思ったりしています。

一少年の観た「聖戦」 (ちくま文庫)

一少年の観た「聖戦」 (ちくま文庫)