池内了「これまでの100年」『世界』2014年4月号

https://www.iwanami.co.jp/sekai/
「これまでの100年は科学が持て囃され異様に発達した100年であり、これからの100年は科学の意味を問い直し新しい科学の概念を育む100年とすべき」と語る池内了が、まず「これまでの100年」と題して科学の現状とそうなった理由を整理したのが今月号。
池内了「これまでの100年」

  1. はじめに
  2. 要素還元主義の科学
  3. 「新発見」の過大な評価
  4. 役に立つ科学への傾斜
  5. 科学の国家への従属
  6. 科学の終焉

今マスコミで注目を集めているSTAP細胞騒動にもつながる内容の記事なのに、どうもあまり話題になっていないようなので、紹介しておきます。『世界』次号にこの続き「これからの100年」が載るそうです。

思ったこと

20世紀には素朴に信じられていた世界観や方法論が、21世紀になるとそのままではこの先行き詰まるのが見えてきた、というのは、自然科学の分野だけではなくて、美術や音楽や文学、そして大衆文化の面でも似たような様相が現れてきているのではないでしょうか。もっといえば、民主主義、そしてそれを支える「大衆」というものをとらえなおさないといけない時代が始まっているのかもしれませんよね。
また、読んでいて理工分野のたいへんさもかんじました。新発見や新開発のためには巨額の資金が必要となり、成果を出すまでの地道で泥臭い作業に費やされる労力と時間、成果が軍事など人体を害することに直結する危険性の大きさ。
ときどき、ぜんぜん直接には理工分野には関わっていないマスコミ文化人が、話の流れで「ぼくはどっちかというと“理系”だからぁ」とか言ってしまっているのを見ますけれども(発想や感性の質がそうだといいたいらしい)、まあ話の流れからどういう意味合いで“理系”と言っているかはわかりますし、たとえの一種だとはわかるのですが、やっぱり素人はあんまりうかつに“理系”だからぁ、なんて言わない方がいいのではないでしょうかね。もっとぴたっとくる言い方、表現をきめられるのが“文系”の取り柄なんじゃないの。それができないなら“文系”として鈍いってことになるんじゃないかなあ。
自然科学の門外漢がややこしいことを切り捨て自分の屁理屈を正当化するために「科学」「この科学の時代」「科学的」などという言い回しを乱用していたのが20世紀によく見られた光景のひとつだったのかもしれないです。それもまた本当に自然科学の研究をしていた人にとってははた迷惑なものだったのかもしれません。