朝日新聞のある女性研究者の自死に関する記事が、はてなブックマークにあがってきていた。私は大学とは疎遠な場所にいる者なので、こういう立場にいて悩み苦しんでいる人もいるんだなという分かり方しかできないのだが、その朝日のと、それに関連するというかネタ元になったのであろうブログの記事を読んで、ネット利用者としての感想はもったので、それをちょっとここに書いておきたい。極私的感想である。
ブログを書いたのは、新進気鋭の研究者として世に出た女性の本の出版に関わった編集者で、彼が早逝していった彼女のことを追悼したいのはわかるし、彼のような立場にいる人が追悼すべきだとすら思うのだが、それなら亡くなられた女性のご両親が出した私家版の本から得た断片をブログで紹介するなどということはしなければよかったのではないか。
私家版には、私家版ゆえに封じ込められている瘴気がある。それがあるのが私家版の値打ちだろうが、それを読んで瘴気を含むことの存在価値を分かった上で消化できる人は限られてしまうだろう。まして、ブログというネット媒体は、なぜかそういう瘴気を培養する妙な磁場なのである。
これは書いていいのかどうか迷ったのだがなどとことわりながら、私家版から引用しつつブログに長々と何故書いたのか。これは下種の勘繰りになりますが、私家版を読んで瘴気にあてられ、自分のなかで読んだことからくるもやもやを持ちこたえられなくなったからではないのだろうか。つまり自分で消化しきれなかった。だから吐く。そう、グロ画像を見てショックを受けた人が、これひどい、見て! といいつつ、ツイッターでリンクを貼ってまき散らすように。
今回の記事が、一部の人の不安を無駄に煽っているのは、その瘴気を帯びたままの断片が朝日の記事で"ほんとにあった怖い話”のように仕立てられて流れているのを目にしたからなのではないだろうか。
女性の自殺の直接的原因として結婚生活の破綻があるのだが、破綻した結婚については男性側の言い分もあるだろう。しかし朝日が男性側に取材したような気配はない。それをしていれば私家版毒がやや薄められ、一般の人が飲み込みやすい話にできたかもしれないのに。
なぜか、ホームページが流行り、ブログが普及したあたりまでに、メンヘラ女性の日記がウエブ上で注目され、そのなかでとくに文章力がある人のものは本になり、またライターになる人も出て、しかしそういう女性たちが早死にしていったことを思い出した。彼女たちは犠牲となったのだ、私にはそう見えた。いくら当の彼女らが本を出せたことをよろこんでいても、そうとしか見えなかった。
ネット上に書かれる個人の文章、ネットという媒体のもつクセについて、ある程度の年数ネットを見てきているとなんとなく自分なりには察せられているのだがまだうまく言語化はできないもの、そしてそれに無頓着なままでいる人をネット上で見かけると時々いらつく、特にその人がマスコミ上で発言したり記事を書いたりする立場の人であれば、という、わたくし的な事情なのだが、もうそんなことでつまずいているものは落ちこぼれになるしかないのかもしれない。
ネットの利用者が相対的に少数派で、ネット自体が悪場所視されていた時代は、いまとなっては古き良き時代である。もはや、SNSを最も駆使しているのがアメリカ大統領だったりするのだ。すでにネットは世間一般、世の中そのものになってしまった。しかし、たぶんネットという磁場のもつ特性は昔と変わったわけではないのだ。