『世界』2021年8月号で事件ルポ 京アニ放火、やまゆり園、そして安楽死

 

 千葉紀和「なぜ彼は加害者になったのか 京都アニメーション放火事件(下)」

 先月号の続き、青葉真司の生い立ちを追っています。青葉はいわゆる氷河期世代定時制高校を卒業した後は非正規の職を転々とし、「生活保護から抜け出すきっかけ」として小説を執筆し京アニに応募したそうです。

 ネット上に溢れる紋切型の解釈で見方が固まることへの抵抗するため、取材をして記事を書いたとのこと。青葉を追うことで見えてくる日本の光景、なぜ青葉は孤立したままあそこまで追い詰められてしまったのか。新聞記者としての経験から、事件を報道するときに気を付けていることも書かれています。

 

上東麻子「相模原事件5年 誰がこの事件をもたらしたのか」

 津久井やまゆり園で19人が殺害された事件を、やまゆり園に焦点を当ててルポしています。犯人の植松聖の特異性ばかりに注目が集まりがちですが、植松の障碍者に対する見方に大きく影響を与えたであろう当時のやまゆり園の問題点を探ろうとしています。

 『文藝春秋』2021年6月号に載った相模原事件のルポは、植松聖に焦点を当てながらも、やはりやまゆり園のことにも触れています。『世界』8月号で紹介されているのと同様に、やまゆり園から別の施設に移って、格段に状態がよくなった入居者の例が紹介されていました。

 やまゆり園が作られたのは、前回の東京オリンピックの時だったそうですね。オリンピック開催に合わせて、街中にいた一部の人たちをやまゆり園に収容した、と。令和オリンピックの前にああいう事件が起きるのは、なにか因縁というか、めぐりあわせを感じたりします。

 

渡邉琢「トラウマ、死の刻印、安楽死希求 障碍者運動と安楽死を望む声の対立をめぐって」

 これは事件ルポというより、安楽死をめぐる著者の体験と、そこから安楽死を望む人、肯定する人たちのことを探求した記事。

 まず、2019年6月2日にNHKスペシャル「彼女は安楽死を選んだ」が放送された。

 この番組に対して、ぼくの所属する日本自立生活センター(JCIL)は、「今実際に『死にたい』と『生きたい』という気持ちの間で悩んでいる当事者や家族に対して、生きる方向ではなく死ぬ方向へと背中を押してしまうという強烈なメッセージ性をもっている」ことを懸念して声明を出した。その後この懸念通り、実際に京都で「ALS患者嘱託殺人事件」 が起きた。報道によれば、この番組がALS患者の死への思いを後押ししたという(「死への思い『NHK番組観て』傾斜か」京都新聞、2020年7月30日)。

 一方、この声明の後で、番組の放送倫理上の問題点を指摘した文書をBPO放送倫理・番組向上機構)宛てに提出したのだが、障害者団体からのそうした意見表明にはきわめて強い非難もあった。

(引用元:『世界』2021年8月号 no.947  渡邉琢「トラウマ、死の刻印、安楽死」p.209)

  その非難と言うのが、日本自立生活センター(JCIL)側の言っていることをまともに読んでいないようなものが多く、どうしてそこまで怒り狂ったような反応が出るのか著者はふしぎに思ったそうです。それで、「安楽死」を肯定する側の気持ちを知りたいと「安楽死」をテーマにした本を何冊か読み、「安楽死」を希求する人たちにとって、難病や障害が「安楽死」を正当化する口実になっている場合があることに気が付きます。そこから、でも、なぜそうなるのか。くわしくは『世界』を読んでみてください。

 この件で連想するのは、森美術館問題です。会田誠展の一部展示に抗議したPAPSは、異様なバッシングを受け、ファシスト呼ばわりまでされました。その抗議をきっかけに美術展や表現の自由について語り合う機会ができたかもしれないのですが、そこまでにはならなかった。

 それと、女性が意見を言う場合、自分で思ったことを言っても「なんでそんなことを言うの?」と、妙な勘ぐり方をされてふつうに意見を言えない事態になることはごく日常的に起こりますが、例外的にすぐ「ああ、それ、あなたの自己決定ね」とすんなり“自分の意見”として通る場合があります。「自分の意志で売春します」「自分の意志でAVに出ます」「自分の意志で代理母になります」「自分の意志で卵子提供します」など。

 この記事読んで思ったのは、難病や障害のある人にも似たようなことがあるのかもしれないなって。たとえば、車椅子に乗っている人が降りた駅が階段しかなくて一人では移動できないので文句を言ったらめちゃくちゃ叩かれる、でも、「生きてるのがつらいので安楽死希望します」なら、すぐ「ああ、それ、あなたの自己決定ね」とすんなり聞いてもらえる。

 そういう世の中で、それでも生きたい、生きようとしている人たちを支援している側からすると、安易に「安楽死」を肯定するのは何かちがう、と直観するのでしょう。

 これはじっさいに『世界』で記事を読んでもらうしかない、簡単に感想はまとめられません。今月号では寺島実郎「能力のレッスン 232」での、「戦後日本人としての宗教再考」にも関係してくる内容だと思いました。

 

 こういうルポが載るのは、『世界』と『文藝春秋』くらいになってしまいました。以前はもっとこういう記事が載る雑誌があったのですが。こういうルポを読む人が昔に比べて減っているのかもしれませんが、本を読むのが好きな人はいつの時代も全体から見ると少数派でしかないのかもしれないし、読むのが好きな者が読むことで支えていける面もあるでしょう。『世界』の「読書会という幸福」は今月号で連載が終わりましたが、小説などすぐに時事的な問題に結びつくのではない、それでも読んだ感想から今の自分とつながってくる、そういう読書体験をする、感想を書いていくことで、ネットの風景も少しは変えていけるかもしれないです。

 

 まとまりませんが、自分の感想として。