「メディア・リテラシー 世界の現場から」菅谷明子(著) 岩波新書

現代社会の中心にはメディアがある。
メディアが送り出す情報を読み解き活用するためにはどうすればよいのか?
イギリス、カナダ、アメリカのメディア教育や市民のメディア活動の現場を取材しながら著者は考える。取材者としての自分の見方に偏見があると気づけばそれを認めて改める過程も記すことで、本書自体が「批判的」(クリティカル)な思考を保つとはどういうことかを表していると思った。
読後はもやもやと感想が浮かんでは消える。思いつくまま書いてみる。
HTMLの基礎は国語の授業で教えるのが相応。
「メディアが送り出す情報は、事実を取捨選択し再構成したもので、現実そのものではない」。それはそうなのだろう。そしてまた「事実を取捨選択し再構成する」というのは、人が物事を見聞きしたり何かを体験したりしたときに、それがどういうことなのか自分で分かろうとして頭の中でしていることだったりもする。一次情報というのもたぶん「現実そのもの」とはズレた何ものかなのだろう。
「どんなに素晴しいことや悲惨なことが起きていても、それが社会に広く伝わらなければ、理解を得られるどころか、その存在すら認められにくいのが現代社会の実状だ」。たしかにそういうところはある。世に伝えたいことがある人にとっては、効果的なPRによって広く情報を伝えれば、そのことによって社会の動向に影響を与えやすいという都合のいい面もあるだろう。ただし、存在が知られていようがいまいが存在しているものは存在しているのであって、そのことが忘れられがちになるのはよくない。(この本ではインターネットの項でこの点に注意が促されていた。サイバースペースには独特の偏りがあるのだ)
テレビの多チャンネル化やインターネットの普及によって、多様な情報が手に入るようになったが、ひとりの人間が消化できる情報量には限りがある。情報量全体が増えるということは、ひとりの人間にとっては知らない情報が増えるということでしかないのではないか。
知らなくても、知られなくても、わからなくても、わかられなくても、とくにどうということもなかったりする。