横浜事件

平凡社世界大百科事典1974年版より引用

横浜事件
1942年(昭和17)9月におこった二つの治安維持法違反事件にはじまる思想弾圧事件。
同年の《改造》8月、9月号は、細川嘉六の〈世界史の動向と日本〉と題する論文を掲載したが、発売後、大本営報道部長谷萩少将は、新聞紙上で、同論文は共産主義にもとづく敗戦主義であると論難し、これが口火となって細川は検挙された。
一方、アメリカから帰国した世界経済調査会の川田寿は、アメリ共産党と関係ありと推測されて、横浜で検挙され、この二つの事件は本来なんの関係もなかったが、たまたま川田の関係者として検挙された平館利雄が《改造》《中央公論》などの記者とともに細川と富山県泊温泉に旅行したところから、〈泊共産党再建事件〉としてフレーム・アップされ、43年から45年春までに、30名余のジャーナリスト、研究所員、会社員などが検挙された。
いずれも横浜地方検事局の拘引状をたずさえた神奈川特高警察によって検挙されたので、横浜事件とよばれているが、むしろ治安維持法違反の名目でフレーム・アップされた複数の思想事件とみるべきである。被検挙の主体は《改造》《中央公論》《日本評論》などの総合雑誌編集者であったが、以上の総合誌は国をあげての戦争熱狂の風潮のなかで、わずかに理性的な立場を失わなかったほとんど唯一のマス・メディアだったからである。
戦争に狂奔して、ジャーナリズムを〈紙の弾丸〉化しようとしていた軍官僚にとってはこれらの存在は許せることではなく、44年7月10日、横浜事件を口実として、半世紀の歴史をもつ中央公論社改造社に解散を命じ、〈理性と良心の最後のとりで〉は、圧殺されたのであった。
たんに戦争に批判的であったにすぎない編集者を、共産系の敗戦主義者として起訴するために、猛烈な拷問がおこなわれ、中央公論社の浅石晴世、和田喜太郎は死亡、その他出獄後死亡した者も2人を数える。他の被告は戦後の9月から10月にかけ、一律に懲役2年、執行猶予3年ということで釈放された。その後、旧被告たちは、拷問警官を告訴したが、有罪となったのは警部1名にしかすぎない。
事件は東条英機の〈ふところ刀〉とよばれた唐沢俊樹内務次官の筋書だったといわれている。
(青池晨)

今日の四国新聞には再審で免訴となったニュースとともにメディア規制と絡めた特集が組まれていた。
これからメディア規制や言論規制が行われるとしたら、おそらくインターネットが監視統制のために大いに利用されるだろう。これほど管理しやすい空間もないのではないだろうか。
横浜事件の再審を実現しよう!全国ネットワーク