笙野頼子を読んで思い出すもの

笙野頼子の小説を読んでいると、音楽を聴こえてくるような気がする。
『金毘羅』の感想では交響曲を聴き終わったような充実感を覚えた、と書いた。『海底八幡宮』では、クラシックよりもっと打楽器がたくさん鳴らされるもの、アジアや南米の音楽(かなりざっぱくなイメージですが)が海中で響いているのを想像したりした。
他の作品でも、読んでいる途中でいろいろな音楽を感じる。文章自体、リズムがよくて、黙読するだけで頭のなかですっと音になって染み込んでくるのだが、それとはまた別に、映画を観ていると場面によって情景とシンクロした音楽が流れるように、音が聴こえる。
作品中で笙野頼子はしばしばジャズに触れている。笙野氏自身、ジャズが好きなのだろう。ところで、私は、ジャズとは疎遠なのだ。ジャズという音楽そのものは、なにかのはずみで聴くと、いいな好きだなこういうのと気分しだいで感じてしまうのだが、音楽そのものとは別のところでジャズマニアみたいな男の一群というの、あれが苦手なのである。あいつらがいい気になる素がジャズなら私はそんなものいらないわくらいに思ってしまうのだ。
音楽マニアといっても、おそらく真性のめんどいマニアはクラシックの領域にいるんだろうな、とは思うんだ。だけど、クラシックだと、コンサートにいって静かに拝聴していればそのまんま客のひとりでいられるし、クラシックの演奏家は学校の先生みたいに曲の説明をしてくれたりする。ジャズはそういうのとはちがう、独特の気取りがあって、あれがいやだ。いやだったんだ。
ま、いい年してつまらんことにこだわって、音楽を聴く機会を逃すのもあほらしい。笙野頼子の作品をきっかけに、これまで避けてたジャンルのものも聴いてみようかな。
さて、ジャズとは疎遠な私が、笙野頼子を読んで思い出す音楽にはどんなものがあるか。
白人のロックになるんだけど、Nina Hagen "Nunsexmonkrock" ね。このアルバム、白人女性ロックボーカリストのパフォーマンスとしては頂点を極めた作品になってるんじゃないか。もう手元にないけど、昔アナログ盤を持っててよく聴いた。ニーナの表現力のスゴさ、当時はスゴすぎてゲテモノ扱いされたりもしてたな。女性アーティストがあのころはまだロックの分野では少なくて、女だからというだけでイロモノ視される傾向が強かった。今もそうなんだろうか。気がついてみると、もはやロックとも疎遠になってるといっていい今日この頃だったんだわ。
それとやっぱりP-Funkになりますね、私の場合。単に好きだから、なんだけど。黒人音楽だけれども、ロックっぽい、でもやっぱりファンクなノリとグルーヴ。演ってる人にしてみれば、ジャンルがどうなんてあまり考えずに、自分たちがいいと思うことを演ってるんだろうな。P-Funkをリスペクトする後継世代から出たラッパーたちが、P-Funkをサンプリングして自分たちの表現を作り出しているというのもある。
笙野頼子を読んだ後、これまでうまくことばにできなかった感覚が、ことばでつかまえられそうな気がして、見えてきたことばを言ってみたくなる。そういうかんじ、音楽そのものだけでなく、P-Funkとラッパーのつながりぐあいに笙野的なものを連想してしまう。
それと、笙野作品から聴こえて来るのは音楽だけではない。風にそよぐ木の葉のざわめき、波の音、水がぽたりと落ちる音、固い固い物質が打ちあって響き出る音、鳥の声など。思い出していけばいくほど、ファンカデリックな小説なんだわ。