文藝春秋今月号に載った某朝日OBの文章を読んでこれは嫌われても仕方がないのではないのかと思ったよ。吉田清治の実態に気づきつつ知らぬふりをし続けたことがどれほど多くの人に不信と猜疑心と憤懣を抱かせたかわかっていない。もしくはわかっていても、それは大したことではない、そのような感情を持つ人が愚かだと処理する、それができるのが朝日エリートのパワーということか。つまりは大勢の一般人からすれば強者ということになるから、だったらどれほど激しく抗議や非難をしてもかまわない、ネトウヨにも一分の理はあることになる。
彼らは自分たちがつけた火が韓国人の間に広がり、自分たちに代わって日本政府をなじり罵るのをどういう思いで見ていたのか。してやったり、言葉の力はたしかにある、と、満足していたのだろうか。
すでに国際的にはどうしようもないだろう。しかしそれがグローバルな基準だといわれて、それが現実だと思い知らされても、その現実はそういうものでしかない、そう受け入れざるを得なくなった者たちは、世界を見る目は前より醒めたものになる。おそらく、一部のエリートはずっとそういう醒めた認識を持っていたのだろうが。
この慰安婦問題は、女性のことばがどう世間に受容されるかという難題に無防備なまま触れた面もあり、また、白人が持つアジアへの偏見もからまってきて、そこらへんにからまる自分の闇をいちいち探るのはめんどうだという都合から、大日本帝国がスケープゴートとして重宝がられるということになるだろうと想像できる。
朝日は謝罪したり池上彰のボツにした原稿を掲載したりしたくらいで免罪されるようなものではなく、だったら、あくまで火付け役としての立場から、あれは意義があった(朝日的にはそうだろう)と言い続けるしかないし、そのせいで憎まれるのならそれは仕方がないだろう。