「からくり民主主義」高橋秀実(著) 草思社

からくり民主主義

からくり民主主義

この本は、著者がテレビ番組制作会社でAD(アシスタント・ディレクター)をしていた頃の体験談から始まる。
クレーム電話を受ける係をするというのがADの雑用のひとつにあるのだが、クレームを受ける側としては、「あの番組はつまらないね」とぼやかれるだけでは、報告できるクレームにならないので困ってしまう。
報告できるクレームとはどんなものなのか?
単なる個人的感想になってしまう言い方ではなく、「世間の代表」として意見を述べる型でなされたクレーム。
たとえば「子供への悪影響が心配」「弱者への配慮に欠ける」など、自分の好き嫌いだけではなく、他の視聴者のことも気遣った言い方をしているクレームのこと。
テレビ局へのクレームの模範的スタイルとして、朝日新聞のテレビ欄の「はがき通信」に載る投書が紹介されている。
ある番組に文句を言いたい場合、自分の「文句を言いたい…」という感情を正当化し公にそれを認めさせるために、文句を言いたい人の心の中で、クレームをつけるために必要になる「世間」が捏造されてしまう。
こういう心の動きは、テレビ局に電話なんかしたことがない私にも、思い当たるところがある。普段の会話や、こうして「はてなダイアリー」を書いている時にだって、似たような心の動きが生じることはあるわけで…他人がしているのを見ると「なんだかなぁ」と思ってしまうのに、自分がしている場合には単に気持ちがよかったりすることはままあるわけで……
さて、著者の見るところでは、クレーム文法の原型を供給するのは報道番組。キャスターが「世間の代表」を演じ、権力に対してクレームをつける。ある政策について街の声を聞くという演出では、「反対」「賛成」の声は取り上げても「どうでもいい」という声は取り上げられない。そこまで取り上げると「権力に対するクレーム番組」というスタイルが維持できなくなるからだ。
このAD時代にはじまり、その後ニュースの現場となった地域を取材して回った体験を経て著者がたどり着いた仮説が、本書の題名となっている「からくり民主主義」。
「からくり-民主主義」ではなく、「からくり民主-主義」。
何故そういう仮説が出てきたのかは、本書を読めばわかります。
各章、過去に大きく取り上げられたニュースの現場となった地域を取材して回った著者からの報告です。
取材のために入念なる準備をし、そのために年単位で出遅れながらも現地入りした著者を待っていたのは、「民」=「みんな」が主役になる筈の民主主義の国・ニッポンで、なぜか脇役になってしまった日本人たちでした。ニュースでは主役だった筈のあの「みんな」が、現地入りするとどこにいるのかわからなくなってしまうのです。
著者が取材する脇役たちが織りなす日常の中では、反対派の急先鋒となる「正しい抗議」ができる共産党員や、「わかりやすい反対キャンペーン」を全国発信してくれる朝日新聞が、賛成派が地域社会と折り合っていくための潤滑油の役割を果たしていたりもするのです。
わかりやすい図式化がしづらい現地の状況を、読みやすい文章で伝えてくれるのが本書です。
各章で取り上げられた話題は次の通り。

なぜか解説が村上春樹
読んだ後、ドストエフスキーの小説を思い出した。ドストエフスキーの小説は深刻なテーマを扱っているのだが、登場人物に対する作家の眼差しには根底にあたたかいものがあり、人物描写はユーモラスな印象を与える。
自分が「わからない…」という状態にあることを自覚したまま「わからない」状態に耐えるのは、実は大変なことなのだが、高橋秀実はその大変さから逃げようとせず、「わからない」状況を作りだしてしまう様々な事情を抱えた人たちを描く文章にはユーモアがある。