フジテレビ

最近、ネット発の抗議デモに見舞われたフジテレビ。
韓流ブームごり押しをやめろ! という主張が前面に出てくるため、嫌韓の一種に見え、じっさい以前からネット上で嫌韓・憎韓に熱心な勢力も参加してくるため、排外主義のデモと見なしてしまいたくなるが、どうもそれだけでは片づけられないもやもやとしたかんじがあった。
四国新聞に掲載された中村うさぎのコラムを読んで、少しそのもやもやが晴れたような気がした。2ちゃんねるでは叩かれていたが、中村うさぎは、テレビ局の偏向に抗議するデモはあってもおかしくない、でも、何故この時期に韓流が目の敵にされるのか、韓流ごり押しへ抗議が収斂する形になってしまうと、たとえば原発報道への批判が結果としてかすむのはおかしいんじゃないか、そういう疑問を呈していた。
私も、韓流ブームだけが攻撃の的になるのには違和を感じるし、そこにネット上の嫌韓派が便乗して、デモの性格が排外的なものになってしまっているのは否めないと感じる。
しかし、フジテレビへの抗議それ自体は、まったく意味のないものなのだろうか。
何故、抗議の的になったのが、フジテレビ、だったのか。
人気のあった韓流ドラマ「冬のソナタ」「チャングム」を放送したのはNHKだ。韓流じゃなくて日本製を放送しろ! という抗議なら、デモはNHKに向かってもおかしくない。しかし、デモに参加した人たちがネット上で書いているものを読むと、韓流以前にフジテレビが癇に障るらしいのだ。ブームのゴリ押しだと文句をいいたくなる面が、NHKには薄いが、フジテレビにある、ということだろう。
そうすると、あのデモは、韓流ブームに対する抗議というよりも、フジテレビというテレビ局に対して「もういいかげんにしろ!」と言いたくなっていた人がついに立ち上がった、という面が大きいのではないか。
マンザイブーム以降、80年代バブル期の、テレビ文化をリードしたのがフジテレビだったかなあ、そんなことを思い出す。バラエティの形態が変わり、楽屋オチを視聴者も積極的に共有するのがあたりまえになり、女子アナが安上がりの女性タレントのようになり、「笑っていいとも!」に象徴されるテレビ村的社会になじめないとイナカモノと嘲笑される、あの雰囲気。80年代当初は、従来の感覚では邪道ではあっても、それまで続いていた70年代的な価値観への反発というのはそれなりに意味もあったのだが、そんなものはすぐに消え、80年代フジテレビ的価値観ごり押しが大衆文化を制圧し、フジテレビの色が世間を染めていった。
書いていて、これはちょっとオーバー過ぎるか、と思いもするが、民放の中でも傍流だったフジテレビ流儀が主流になってしまったのが80年代で、その影響は他局にも及び、今でもテレビのバラエティ番組に残っている。観る側に番組内の仲間内意識を共有することを暗黙のうちに要求する、あの世界。
フジテレビに抗議に向かった人は、もうそんなテレビの世界の空気に自分を同調させるのはいやだ! 同調せよとテレビに強制されるのはいやだ! そう訴えたかったのか。
だったら、フジテレビは、このデモを無視してはならない。嫌なら見なければいい、で片づけるのなら、有料ケーブルテレビに転身するべきだ。
今年はマンザイブームを起こした横澤彪が死去し、マンザイブームから成り上がった島田紳助が引退した。
フジテレビ文化なるものがあったのだとしたら、それが完全に終焉するのが今年なのかもしれない。