フジのふもとから浮遊して

トラックバックの記事から、読んで思ったこと。
右翼によるフジテレビ批判の底流にあるもの - kojitakenの日記
「フジテレビ文化」の「終焉」? - Living, Loving, Thinking
フジテレビは右寄りなので、その挙動によってはかえって右派から反発をくらいやすい、というのはありそうですね。今回は高岡蒼甫のツイートがきっかけで、フジテレビへの非難がネット上で集まりだしたところに、前からネット上で嫌韓だった人たちが便乗してきて炎上、フジテレビへの不満をうまく言葉にできない人が嫌韓流の言い方を借用するということも起きて、カジュアルな排外気分が醸成された可能性もある。
ビデオを観ると、デモの主催者は排外主義とは一線を画そうと必死になっていて、極右の一団はネット発デモ隊とは別に来ていたんですけれども、野合しそうな不安はつきまといます。
「フジテレビ文化」の「終焉」? で紹介されていた、北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』 (NHKブックス)は、ちゃんと読んでみたいですね。同記事では、「ただ「フジテレビ文化なるもの」が純化して〈しゃれにならなく〉なってきたのは1990年代に入ってからのことだったと思う」ということですが、これは思い当たることがあります。ゼロ年代になって90年代をふりかえるとき、コラムニストなどが、90年代に入ると、80年代に通じていた洒落が通じなくなって、言ったことがそのまま受け取られるようになってしまった、とよく語っていたな、と。
話がズレますが、これはゼロ年代ですが、ある少女マンガ家が、最近の子はツイストが全然通じなくなっているから、ストーリー作るのがきついと嘆いていたのを思い出しました。あと、読者へのあいさつとして書く文章でも、韜晦や諧謔は通じないので、誤解されて苦情が来たりする、とも。おそらく掲載誌にもよるのだろうが、ハリウッドの商業映画並みに客を意識しなければならない分野だけに、作家のストレスはたいへんなものだろうと思われた。
2ちゃんねるも十年前とはかなり雰囲気が変わってきていて、全体にまっすぐで直情的な書き込みが増えたように感じるのは気のせいだろうか。