橋下流朝生活用術

映画作家想田和弘による、朝生で何故橋下徹が“できる男”に見えてしまうのか? についての分析。

想田和弘ツイッターから。https://twitter.com/KazuhiroSoda

プロレスみたいだな、などと言ったらプロレスに失礼ですね。田原さんは橋下くんを引き立てるための雇われヒールをやらされてしまったわけですね。「橋下市長 田原氏に“朝生司会”を要請」http://bit.ly/UsRSa7

https://twitter.com/KazuhiroSoda/status/249826104653803521

ついでに言うと、田原氏が「橋下市長に反対派たちが全然歯が立たなかった」と宣伝している有名な朝生をネットで観たら、どちらかといえば橋下の方が劣勢だった。田原氏の論評は極めて奇妙かつミスリーディングだ。田原氏の文章だけを読んだ人は「橋下に反対派が完敗した」と印象操作されてしまう。

https://twitter.com/KazuhiroSoda/status/249828295200366592

橋下VS反橋下派の朝生を観察すると、橋下は討論に強いのではなく、「勝っているように見せるのが上手い」だけであることが分かる。例えば反橋下派が鋭い突っ込みを入れている最中に橋下はニヤニヤしているので突っ込みを入れている方が愚かに見える。その印象だけが「ながら見」の視聴者に伝わる。

https://twitter.com/KazuhiroSoda/status/249829356732567553

また、橋下サイドは本人と東氏だけで反対派は大勢なので、その構図だけで「孤高のヒーロー」を演出できる。カメラワークも橋下を映すショットは下から煽ったりクローズアップを交えたり工夫している。反対派のショットは基本的に単純なバストショットだけ。あの演出法はナチの宣伝映画と似た手法。

https://twitter.com/KazuhiroSoda/status/249830975805206528

朝生の作り手が自覚的だったかどうかは分からない。しかし、あの映像は明らかに橋下のためのプロパガンダとして機能していた。一方の視聴者は、反対派も出演する朝生がプロパガンダであるはずがないという先入観があるので、極めて無防備である。だから映像が醸し出す印象だけを受け取ってしまう。

https://twitter.com/KazuhiroSoda/status/249832920041279488

1回目の公開討論会が不評だった橋下が、2回目の討論会にわざわざ田原氏を呼び、わざわざ「維新をつぶすぐらいでやってほしい」などと批判役をお願いしたというニュースは、朝生形式の「討論会」が橋下プロパガンダとして機能し得ることと、そのことを橋下がちゃんと理解していることの証拠である。

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とにかく、橋下が表情や身振りなどの非言語的コミュニケーションで印象を操作することに極めて長けていることは、憶えておいた方がよい。また、それを最も効果的にするための舞台を用意するのも上手い。演劇をほとんど見ない橋下が、演劇的手法に長けているのは何とも皮肉である。

https://twitter.com/KazuhiroSoda/status/249840424808759296

想田氏はずっとツイッター橋下徹を観察、分析を続けてくれています。『世界』2012年7月号に橋下現象について『言葉が「支配」するもの』を寄稿。ブログにも、関連記事を書いています。

朝生についていえば、とにかく視聴率が取れる男としての橋下徹には価値があるんだろうな、というのが第一印象。番組が盛り上がればいい、というのは司会者田原総一郎としては最優先事項になるでしょう。それ以前に、とにかくいま話題になる旬の人、それも番組の性格上、ちょっときな臭いような華がある人が朝生的にはスターになっちゃうんでしょうね。
あの番組の性向としては、そうなるのはしかたない気がする。観なければいいんだけれども、朝生はわりと他の媒体で番組出演者が何言ったか取り上げられてしまうんですよね。田原総一郎が司会してた他の番組もそうだった(以前日曜日にやってた番組)。
なんでそうなってしまったのか。私の記憶では、田原総一郎がのしてきたのは、久米宏がはじめたニュースステーション? だったんじゃなかったっけ。政治のエンタメ化、テレビショー化を推し進めたのは、あの久米宏の番組になるんじゃないだろうか。
(観なきゃいいわけだけど)