桐野夏生『メタボラ』上・下(朝日文庫)

メタボラ(上) (朝日文庫)

メタボラ(上) (朝日文庫)

メタボラ(下) (朝日文庫)

メタボラ(下) (朝日文庫)

久しぶりに長い小説を読みました。寝る前に少しずつ読んでいたのですが、中盤以降は一気に読み進みました。
一人の青年が記憶喪失状態で沖縄のジャングルをさまよっているところからおはなしは始まります。自分の名前も思い出せないまま青年はジャングルを抜け、路上で出会った少年になんとか受け入れられ、ギンジという呼び名をつけてもらえます。ジェイクと呼んでくれという少年と共に、とにかく生き延びるために歩き出す。ジェイクは名士一家の落ちこぼれで、しがらみから逃れて新しい生活をしたいと思っていました。ギンジとジェイクになって、世の中に踏み出していく若い二人。彼らがどうなるのか、そういう物語です。
行くあてもないまま、しばらくはいっしょに、途中からは各自それぞれに、女の子のアパートに居候したり、住込みのバイトをしたり、外から沖縄にやってくる若者が泊まるゲストハウスに入り込んだり、ホストになったり、しかし、離れてからも、完全に別れ別れになるわけでもない。ギンジとジェイクにとっては、二人が路上で出会ったところが起点となって、各自の新しい物語が始まっているのです。その始まりをたしかめたがるように、時々相手に連絡を取りたくなる。
ギンジが記憶を取り戻す過程で、大学生だったのが家庭の事情で中退してしまい、アルバイトや派遣労働で食いつなぎながらまったく先の見通しが立てらず、陥穽にはまったような状態であがく、今こういう若い人たちはめずらしくないのだろうと容易に想像できる、そんな絶望状態が描き出されていきます。ギンジ、という青年を描くことで、現在の労働問題も描出されるという形ですね。
物語の主題は、ギンジとジェイクという二人の若者です。普遍的と言ってもいいような、若いときにはありがちな感情が読んでいてひしひしと迫ってきて、痛い。自分が若い頃、目先のこと、自分のことで頭がいっぱいで、周りの、後になって思えば自分に親切にしてくれていたとしかいいようのない相手に、どんなに身勝手なふるまいをしてしまったか、などと、自分の痛い記憶を甦らせられる読書体験。そして、若かった頃の自分を許すように、小説中の登場人物に対して少しやさしい気持ちになって読んでしまいました。まちがいがあっても、まだ若いんだから、しかたないし、いいんだよ、やりなおせば、かわっていけばって。
でも、物語自体は、そういう若者たちが、なすすべもなく死に近づき、だからといって当人も周りも何もできない、そういう現実を描いていきます。
ラスト、世界で有数の美しさを持つ沖縄の海、そんな景色の中に浮かんだギンジとジェイクが、「真夜中のカーボーイ」「スケアクロウ」といったアメリカンニューシネマの記憶を呼び起こす。唯一の神のギフトだったかわいい顔を毀損され、それでもギンジに会いたがり、最後に「ズミズミ、上等」と言ってくれたジェイク。
自分からは逃れられないと悟ったギンジが、それでも過去を乗り越えて生きようと思えるようになった。その道程の起点で生き直そうと試みる彼に名前をつけてくれたのは、ジェイクだったのです。比重がギンジに傾いた物語ですが、もう少しジェイクも描かれてよかったのではないでしょうか。欲ばりかもしれませんし、ああなるであろう兆しはちゃんと書かれているので、文句のつけようはありませんけれども、ちょっと最後の出方が、ギンジが安楽ハウスから脱出するための出口係として劇中に召還されたように見えてしまって。いいラストシーンだったとは思うのだけれどもね。
この感想は、自分がジェイクのファンになって読んでたってことなんでしょうね。終わり。