『森美術館問題と性暴力表現』ポルノ被害と性暴力を考える会編 不磨書房 再読

森美術館問題と性暴力表現

森美術館問題と性暴力表現

2012年、「会田誠展:天才でごめんなさい」が、森美術館という公共的な性格を強く持った場で開催され、その中の一部作品が無批判なまま展示されていることを問題視し抗議した側からの記録。
仮に会田誠の犬シリーズが、好事家向けの小さな画廊で展示されたりしている限りでは犬シリーズの存在に気づきもしなかったような人たちにまで、一大イベントの目玉作品として広報されたことに、これまでの棲み分けの建て前が崩され脅かされたと感じながらも声を上げられない人たちが一定数いた。
抗議の声を上げた人たちは、そういう人たちのことも無視しないでくれ、と、まず訴えているのだが、美術館への抗議だったため、表現の自由がどうのこうのという話になってしまいうまく伝わらず、当時のツイッターでの喧噪の中、相変わらずポルノ的なものを過激でとがった表現として受容してしまう世間的慣性の前に抗議が立ち往生させられていた光景が思い出さされる。
今はツイッター上では#MeTooがブームになっている。
声を上げられない被害者を支援してきた人たちはずっといたし、今もいるし、性暴力被害を無理に#MeTooとして告発しなければならないということはない。ネット上で(もしくはマスメディア上で)言わなかったからといって、それが存在しないものと化すわけではないのだ。
そして、森美術館問題を考える、といったような形でも、性暴力被害について考えることはできる。
今こそ大勢に読んでもらいたい本のひとつ。

ゾーニングしていればそれでいいのか

ポルノ被害と性暴力を考える会からしてみると、あのような形による森美術館での会田誠展開催が、ゾーニング破壊行為と映ったわけですが、当時はツイッター会田誠展を見に行った人からよく「件の作品は18禁コーナーという形でゾーニングされていたからあの展示には問題はない」という意見が出されていました。
しかし、私には、あの18禁コーナーを設けるということ自体が、会田誠展の演出のひとつでしかなく、批判した側はああいうやり口も含めてあれでいいのかと疑問視しているのだと見えたのです。
あえて美術展の会場に“18禁コーナー”という下世話を擬態した一画を設けてそこに一連の作品を並べるというのは、会田誠は「天才でごめんなさい(テヘペロ」とつぶやきつつしらっとアブナイ表現も開陳してしまう、それが魅力のひとつだ、というのをわかりやすく見せていたのではないでしょうか。そして、巷で売り買いされるポルノを見るのには抵抗がある人も、会田誠展へ行けば18禁コーナーでポルノ的作品を(うしろめたさ抜きで)楽しめるわけですよね。
また、会田誠が女を覗き見しつつ自慰している姿を戯画化した映像を見せたりするのも、「どうせ男ってこんなですから」という昔ながらの男のてれかくし風自己卑下ぶりっこ、ロリコンがらみでいえば吾妻ひでおギャグマンガでおなじみの一場面ですし、もっと広くとれば、芸人が「どうせお笑いですから」とおことわりしつつなんかむちゃやってみたりとか、一時期からは物書きの先生方にも「わかってやってますから」と言う人が増えましたが、あの手の、わかってやってますしぐさ、をしてみせてるということですよね。
美術に限らず芸術から性的な因子を排除するのは不可能ですから、会田誠展が性的だからよくない、とは私には言えない。しかし、性的であることにも意味がある、と言うことはできても、その意味がいいのかわるいのかは、観た人がもっと語り合っていい。
抗議が来て、新聞にも取り上げられて、美術館側と抗議した側が話し合いの場を持った、このことがもっと大きく取り上げられて知らされていい筈です。そこから美術展と一般人観客の関係を語ったり、もっともっとできたんじゃないでしょうか。
まあ、美術展ということになると、たとえば会田誠なら、ロリコンやらポルノやらわかってやってますしぐさやら、そういう事象が氾濫している今の世の中を反映した作品並べることでこの浮世を批評しているんですとかなんとか、いくらでも理屈をつけられますので、映画見た後みたいに一般人が気軽に感想いったりしづらいというのはありますよね。でも、一般の人は素朴に自分の感想を持つことから始めて勉強していくしかない。
ところで、あの会田誠展を企画した学芸員はすべて女性です。彼女たちが、18禁コーナーを作って、「わあ、わたしたち、高学歴の教養あるお嬢様なのに、こんなアブなくてキワドイことやっちゃったりしてる、うふ♪」になっている様子をふと想像してしまい、女性間の不平等というか階級差のようなものの存在を認めた上で、この問題を考えなければならないと思っています。
一部の女性たちが、かつてなら男性でなければできなかったことをできるようになった。それはたしかに一部の女性たちを自由にした。しかし、それは、かつてある種の男性がしていたふるまいをできる女性という層が現れた、ということで、その類のふるまいがなされるせいで傷ついたり犠牲にされたりする層が消えたことは意味しません。女性という一群に着目すれば、女性の中で強者弱者の区分けができ、弱者が自己責任の名の下にさらにおとしめられる可能性がでてきているのかもしれない。#MeTooも、リベラル文化人や一部有名人に簒奪されたしなければいいが、ほんとうに困っている立場の弱い女性が助けられる運動になるのだろうか、と用心しながら見ています。

PAPS ポルノ被害と性暴力を考える会

https://www.paps.jp/
トップページより引用

ぱっぷすは、リベンジポルノ・性的な盗撮・グラビアやヌード撮影によるデジタル性暴力、アダルトビデオ業界や性産業にかかわって困っている方の相談窓口です。撮影やお金のトラブル・動画の販売停止・削除などについて、一緒に考えながら事業者と交渉しています。相談していいの?と思うことでも、ご相談をお待ちしています。

関連

ポルノ被害と性暴力を考える会編『森美術館問題と性暴力表現』不磨書房 http://d.hatena.ne.jp/nessko/20131221/p1