「健全な保守」

上のことばを聞くと、むず痒くなるような違和を感じる。
たとえれば「澄みきったドブ」とか「乾燥した湿地帯」とか、そんなかんじ?
前後の文脈からあえて違和感を与えることを意図して持ち出されていると察せられるような使われ方をしていれば、むず痒さもまたそれなりに心地よいだろうが、「健全な保守」はそんな使われ方はまずされない。いたってまっすぐ使われていることがほとんどだ。
どういう方々が使っていたかというと、民主党から旧社会党のメンバーを排除したい人たちとか、政界の保守勢力を結集して新たな政治勢力にしようとしている人たちなど。
どういう気持ちで使っているかはわかるんだけどね。しかし、あれなんだわな。
もともと保守というのは、不健全なものも適当に飼い馴らしておいて、場合によってはそれをうまく利用する知恵に長けている人たちだったと思う。
革新を自認するものは、なにせ「この世はほんとうはかくあるべきなのに、今はまだそうなれてない!」という思いを抱いていて、自分の理想とする世界に少しでもこの世を近づけたいとがんばる。結果として周囲に益をもたらすこともあるけれど、理想を重んじるあまり現実を軽視して暴走する危うさがある。
保守の側は、そういう革新な方々の考えや行いを傍で見ながら、いいと思えるときはほめて協力し、あれでは危ない止めたほうがいいと思ったら冷水を浴びせ、そうすることで現実社会の安定を保とうとする勢力だったのではなかったのか。
「我々は健全だ!」と胸を張る保守、ってなんか気恥ずかしくない?
前例がない、という意味で、日本の伝統に反してはいないだろうか?
「健全な保守」の勢力拡大を目指して一部政治家が結集しているが、あのネーミングのセンス(例:真・保守政策研究会)はほとんど伝奇ファンタジーのノリであって、いよいよ政治家主導で日本の伝統やらをサブカル化する運動が始まってしまうのかもしれないが、もともと「伝統」や「普遍」というのはその時支配的だったオッサンの都合で恣意的に定められたものでしかなかったのかもしれないわなと思い当たると別にこれも日本の伝統に反しているわけでもないのかもしれないわなということになる。こんなもんなのか、日本って。 orz
「ああいうのの仲間だと思われたくない……」とこっそり悩んでいる保守の方、私はこっそりとですがそういう方を応援していますので、生き延びてくれ。時を待て。